彼女の乳がんが発覚してから、約半年が経ちました。

ここへ来て、彼女の乳がんへの対し方が、僕の理解を超えている度合いを高めています・・・

彼女への乳がんに対するサポートと、彼女の引っ越しの部屋選びへのアドバイスが、彼女から見るとどうやら同じだったようです・・・

 

僕は、彼女の乳がんの治療法を決めることは、彼女自身にとっても僕にとっても、一生のうちで最も重要な決断の一つになると思っていました。

なので、僕は自分のこと以上に必死になって乳がんの情報を集めて、彼女にアドバイスしました。それが、患者本人である彼女に重荷になってしまった。そして、自暴自棄になった彼女と僕は上手くコミュニケーションが取れなくなり、別れることまで考え出してしまった・・・

と、そういった経緯だと思っていたはずなんですが・・・

「あなたは私にタモキシフェンを飲ませようとしてる」と言われてからの、気分転換の引っ越しで、「あなたは私に某沿線に住まわせようとしている」でした。

「あなたは私に自分の気持ちを押し付けようとしている」というのが、よもやの彼女の口喧嘩テンプレートだったとは・・・

や、やっとれん・・・

 

いや、悪い方向に物事をとらえるのは止めましょう。

ここは逆転の発想です。

これはチャンスです。

彼女の引っ越しでの部屋選択への対し方を見ていれば、彼女の乳がんへの対し方の理解も深められることになるのですから。

だ、だって、同じなんですから・・・

 

僕としては、彼女の自分の乳がんへの考え方と、自分が住む部屋への考え方が似ているというのは驚きです。自分の健康のことと自分の生活のことが同じなのです。

僕にとっては生活と健康ならば、健康が上です。健康でなければ生活は苦しくなるわけですから。

なので、健康に対する時間や手間やお金などの全てのコストは生活に対するものより上にすべきだと思っています。まあ、そうするのが理想であって、現実的にはそうも言ってられない場合も多いのですが。

なので、彼女が乳がんの治療法を決めずに、引っ越しの計画に本腰を入れようとすることが理解できませんでした。

ですが、こういった考え方が患者の心理を理解できていない結果だということも学んだつもりです。特にがんは遺伝子レベルでなる病気であって、健康的な生活を送っていたら必ず回避できるというものでもないのですから。

 

一旦、人に何かをしてあげようと思ったならば、それは、その人にとって本当にありがたいことをするべきです。ありがた迷惑も、まあ仕方ないのかもしれませんが、僕はそうはしたくない。

彼女に乳がんの治療法についてのアドバイスをしようと決めたのならば、彼女の乳がんに対する非合理な部分も受け入れなければならない。それも含めた、彼女にとってのありがたい選択肢を用意しなければならない。

人の非合理な部分は、周りの人には非常に理解し難い。合理的でない考えなのだから、合理的な考えより理解し難いのは当然です。

彼女の非合理な部分を理解できるチャンスが彼女の引っ越しでの部屋選びにあるのならば、僕にとってそれは、彼女の乳がん治療サポートの重要なポイントになるはずです。

 

そ、そう考えておけば、多分彼女と喧嘩にならないはずです・・・

 

 

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昨日は彼女の引っ越し先を決めるために不動産屋めぐりをしてきました。

あまり乳がんのことばかり考えていても気が滅入るので、気分転換のつもりでいくつも駅を回ろうと思いました。

朝から出発できましたし、意外と段取りも良く、いくつも町を回れました。その中の彼女が気に入った町では、不動産屋に部屋を見せてもらうこともできました。

そういった現実的な成果は、まずまずあげられたのですが・・・

 

な、何かがおかしいです・・・

何か、デジャブのようなものを感じます・・・

なんというか・・・

彼女との物件についての話のやり取りが、ここ最近の彼女との乳がんについての話のやり取りと構造が同じなのです・・・

 

彼女は引っ越しを決めました。引っ越し先を探さねばならない。僕はそれを手伝う。サポートする。

彼女の部屋なのだから、最終的に決めるのは彼女。だから僕はなるべく客観的に自分の分かることをアドバイスする。僕の知っていることや思ったことを彼女に言う。

彼女が「あなたは私を~に住まわせようとしてるでしょ」と言い出す。

僕は「そんなことはない」と否定する。そしてそれ以降はなるべく「僕ならば~こういう探し方にする」的なアドバイスを止める。情報だけを出すことを心掛ける。

彼女が望む条件の物件が、予算内でなかなか見つからない。そうすると彼女は、どんどん高い物件に目がいく。予算をオーバーしても「なんとかなるでしょ」と現実的なお金の計算をしない。

おそらく、なんとかならない・・・

 

今このブログを読んで下さっている方には、僕にも彼女にも、いろいろな意味であきれた方が多いかもしれません。特に、今までこのブログを読んで下っていた方は、あきれ具合もひどいかもしれません・・・

申し訳ありません・・・

 

もし今日僕が書いたことが客観的に間違っていなかったら、これまでこのブログで僕が書いてきたことは、乳がんの治療とは直接何も関係がなかったのかもしれないのです・・・

ただの中年バカップルの、日常的な口喧嘩だっただけなのかもしれないです・・・

乳がんについて話そうが、引っ越しについて話そうが、他のことだろうが、話し合う内容とは関係なく、ただの二人の性格からくる口喧嘩のパターンだったのかも。

居丈高に「無治療と無謀は違う!」などと言っていたことが、恥ずかしく思えてきました・・・

ど、どうしましょう?

 

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昨日のブログで僕が言いたかったことを一文にまとめるとこうなります。

彼女は乳がんの治療をギャンブルのようにとらえ、彼女が普段ギャンブルをする時とまったく同じ感覚で乳がん治療にのぞんでしまっている。

ということです。

これはかなり不謹慎なことで、少し許せない気持ちになりました。

 

ですが、僕はギャンブルを否定するつもりもありません。ギャンブルは手軽で簡単な趣味としてよいと思います。

ただ、ハマり過ぎるとギャンブルは危険です。ギャンブル依存症という言葉があるように、病的な状態になる可能性があります。

趣味としてのギャンブルと、依存レベルまでハマってしまったギャンブルの間には、明確な違いがあります。

同じギャンブルをやっていても、かたや楽しんで遊んで満足する。かたや負け続けて借金をしたり、自殺を考えたりする。

僕はこの危うい方であるギャンブル依存症の状態を、彼女が乳がんの治療にのぞむ態度に見た気がしました。

 

僕は何度も乳がんの治療をギャンブルに例えています。このことを不謹慎でり、申し訳なく思っています。

不謹慎を承知でこういう例えをする理由は、こう説明しないと確率現象でしか分からないことの本質を説明するのが難しいと思うからです。

人は確率でしか理解できない現象を前にすると、その人の本性が出るのです。

ギャンブルがこの好例なことは言うまでもありません。ギャンブルをしている時に性格が変わる人は多いです。変わるというか、本性が出るのです。

占いなどを信じる強さなども、これになります。占いは確率的な予測であり、それを信じない人、適度に楽しむ人、心から信じる人、そして依存して全てを占いにかけてしまう人もいます。

実はスポーツも確率現象です。スポーツのプレイスタイルなどは千差万別です。どんなスポーツでも、強引に一番点数が高い(入りやすい)プレイを好む人から、堅実に守りを固めるプレイスタイルを好む人までいます。

人は確率現象を前にすると本性が出てしまいます。そして、本性を出すことはとても楽しいのです。だから、人はギャンブルもするし、占いも信じるし、スポーツに励むのです。

 

す、すみません、いつものように話が回りくどくなりました・・・

要するにギャンブルも占いもスポーツも楽しい。ギャンブルを楽しむことは人間の本能と直結していて、根源的な楽しさがあるのです。

ですが、ギャンブルは依存症のように道を踏み外す危険がある。(僕は占いにもスポーツにも道を踏み外す危険はあると思いますが、ここでは省略します。)

そして、彼女は乳がんの治療法選択においても本性を出して道を踏み外しかけているように見える。

何が問題なのか?

とても簡単なことです。自分の本性を出すことは楽しいことです。なので、確率現象を前にすると人は自然と本性が出てしまう。しかし、人は本性だけでは生きていけないのです。

たまに本性を出して自分を解放することは、楽しいことであり必要なことではあるのですが、それが楽しくてひたすら本性を出し続けようとすると、あらゆる問題が発生するのです。

 

ギャンブルは楽しいです。自分の小遣いの範囲で楽しんでいれば、それはとても楽しいものです。ですが、生活費を使い込んでしまったり、人にお金を借りてまでやってしまったら、それはもはや依存症で病気と言えます。

当たって得るお金のことを想像するのはいいです。ですが、それと同時に外れて失うお金のことも考えないといけないのです。

外れて失うお金のことをまったく考えずに、当たって得るお金のことばかり考えていると、負けても負けても止められなくなる。つまり依存症になる。

「とにかく、勝てばいいんでしょ?」というやつです。

勝ちと負けの両方のことを考えた上で、負けた自分が払える範囲でギャンブルはしなければならないのです。そうして初めて趣味としてのギャンブルが成立するのです。

負けた時のことを真面目に(客観的に)考えずにギャンブルをやってしまう状態が依存症です。

 

負けた時のことをしっかりと考えて、自分の責任の持てる範囲でギャンブルをするならば、後は好きにすればいいのです。どんなに自分の本性を出してもいいのです。

持っている金額の全てを、最初の一瞬に賭けてしまってもいいのです。逆に、他人から見れば気が遠くなるくらい、チマチマ少額を賭け続けてもいい。無謀な賭けをしてもいいし、堅実になってもいい。

 

乳がんの治療法選択も、確率現象である限りはこれらの法則が当てはまると思います。

僕の彼女のように、まったくの無治療を選択して、かつ再発をしないことを目指してもいい。逆に、わずかにでも再発率を減らせるのならば、どんな治療でも全てやる、というのも選択肢です。

それらは患者自身の性格や好き嫌いで決めるべきことなのです。患者の意思で決めなければならない。

ただ、それぞれの治療法の効果や副作用など、選択肢の中の情報は全て確認すべきです。確認してよく検討するべきです。自分の望まない治療方法についての効果や副作用などは聞きたくない。聞かない、というのはまずい。

「とにかく、どの治療法でも再発しないかもしれないんでしょ」というのはまずい。

自分の選択した治療法が上手く行かなかった時はどうなるのか。それはどのくらいの確率で成功するのか、失敗するのか。

そういうことをまったく考えないと、ギャンブル依存症と同じような状況になってしまう可能性があります。ただただ、再発しなかった自分を想像しているだけです。ギャンブル依存症の人が、ギャンブルで勝った時だけのことしか考えられないのと同じです。

人は確率現象でしか分からないことを前にすると、こういう状態におちいりやすいのです。

 

彼女が乳がんの治療法の選択で、無治療を選択すると言うならば、僕はそれを受け入れて僕のできる範囲でサポートします。

彼女の本性は強気そのものです。ですから無治療という強気の選択肢を取ることを僕は認めます。

ですが、彼女が無治療を選択するから、無治療以外の選択の情報をまったく考慮しないというのならば、それは口を出します。もちろん無治療の場合のリスクもしっかり確認すべきです。

強気と無謀は違います。他の選択肢を一切気にもとめないのは無謀であり、ギャンブル依存症の状態に近いです。

無治療を選ぶにしても、無治療のことだけしか考えていない結果ではなく、全ての治療法のメリットとデメリットを考えた上での選択として無治療を選ぶべきです。

 

 

 

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