男女が二人で一緒にいる意味はなんでしょうか。

なんとなくですが、決まった意味などない、というのが正解のような気がします。僕の主観ではない、多くの人の客観だとそうなるような気がします。

ただ、僕の答えは明確にあります。

僕にとって男女二人が一緒にいる意味は、お互いが一人きりでいるよりも、何か良いことがある、ということです。

やる気が出て頑張れたり、協力して何かを成し遂げたり、何もなくても楽しい気分になれたり。

お互いが一人でいて、一人ずつの生産量より、なんでもいいのですが二人でいる時の二人の合計の方が多く生産できることが、二人でいる理由だと思います。

生産するものは、物質的なものでも精神的なものでも、僕はどちらでもいいと思いますし、どちらでも結局同じことだと思います。

お互いが作り出すものが違ってもいいです。どちらかが精神的な支えになって、どちらかが物質的な生産をして、その総量がそれぞれ一人でいる時の合計の二人分より多くなればいいのです。

単純に一方が一方を看病するだけの関係だったとしても、看病する側が得るものはあると思います。つまり看病される側が作り出しているものがあります。それは思った以上に大きいのかもしれません。だからそもそも看病という行動が生まれるのです。

 

しかし、精神的なものを含めた二人の作り出すものの総量が、お互いが一人でいる時の二人分の合計の量より少なくなってしまうと、原理的に二人でいることはそれぞれにとってマイナスになり、二人で一緒にいることは困難になります。

二人の作り出す合計量が一人ずつの合計より少ないと、一緒にいれば一緒にいるほど、一人でいた時より少なくなった分の取り合いを二人ですることになるのです。

そのような状態は長続きしません。

 

そして、そういった目線で見てみると、僕の彼女は美しいと思えるくらい、一人でいる時と二人でいる時の生産量は変わっていないように見えます。

それはすなわち、人の意見を聞き入れないということです。相手のいい影響も悪い影響も受けないのです。マイペースなのです。

なので、僕の理屈で言うと、僕と彼女が一緒にいられるかどうか、つまり二人の生産量をプラスにできるかマイナスになってしまうかは、僕自身の生産量にかかっている、ということになります。

 

この結論は、僕が別の経路で日ごろから考えている人間関係についてのものと一致します。

僕は喧嘩やいさかいがあった場合、すべての場合はお互いに原因があると思っています。すべての場合はどちらからのアプローチでも喧嘩やいさかいを終わらせることができると思っています。

どんなに相手が悪いと思ったとしても、客観的に見ればお互いがお互いの生きている環境の一部分でしかなく、その環境にどう対応するかという自分自身の問題なのです。

目の前にいる人の発言や行動は、自分自身の問題なのです。

怒りを表すのは選択肢の中の一つです。一時的に無視するのも選択肢。建設的に話し合うのもの選択肢です。相手の行動は相手のものですが、その相手の行動に対して自分がどう反応するかは、自分が決めることです。

 

乳がんについて僕が彼女にやってあげようとしたことは、彼女にとってマイナスになってしまったかもしれません。

僕からすると、僕が一生懸命に彼女のためにやったことを彼女が受け取らなかった、と取れます。僕の好意が彼女にとってマイナスになるならば、僕は彼女と一緒にいる意味はない、と考えられます。

最初はそうしか解釈できませんでしたし、悲しくしかなりませんでした。

 

ただ、それは考え方の一つです。すべてではないはずです。

自分としてはできる限りのことをやって、結果に関わらずそれで満足しておこう、というのも考え方の一つです。

そもそも、乳がんについて調べるということは彼女のために僕がやろうとしたことです。誰かに何かをやってあげて、それが受け入れられないから失望するというのは矛盾しています。

 

僕と彼女は基本的に話し合いが成立しません。僕はその原因は彼女に話し合う能力がないからだと思っています。

それが仮に事実だとします。そうだとしても、僕が彼女と一緒にいて頑張れるかどうかは、それとは根本的に違う話なのでした。

僕が彼女と一生一緒にいられるかどうかは、僕の問題であって、彼女の行動で決まることではありませんでした。

 

最後までお読み頂きありがとうございます
よろしければ応援クリックお願い致します




にほんブログ村

PAGE TOP