前回のブログを僕は少しおかしな精神状態で書きなぐってしまっていました。

書かれた具体的な内容は、今にになって読み直してみても、僕の正直な気持ちとしては間違っていません。

ただ、文章全体から受けるイメージが「怪我や病気の患者は、家族や近しい人のためにもしっかり治療すべきだ」というものになっていました。

このこと自体も僕の正直な気持ちではあるのですが、これをそのまま乳がんの患者に当てはめるのは間違っています。

このことを文章中ではっきり示さなかったことは、僕にとって痛恨の極みです。

このブログは乳がんについてのブログですし、読んで下さる方も何かしら乳がんと関わっている方が多いと思います。

乳がんと関わられている方や、その家族の方に、「乳がん患者は家族のためにもしっかり治療すべき」という、僕の意図しないメッセージを送ってしまい、不快な思いをさせてしまったかもしれないことを、心からお詫び申し上げます。

 

僕は乳がんの患者の方に「しっかり治療しろ」と言うのは、あまり良くないことだと思っています。

このブログを続けていく過程で、そう思いいたりました。

乳がんの患者さん本人が「家族や近しい人のために治療を頑張ろう」と思うことは、とても良いことだと思います。

また、そういう激励を自分の糧とできる患者さんに限定すれば、その言葉は意味のあるものです。

ですが、乳がんの告知を受け、周りの人間に気遣う余裕がなくなってしまう患者さんも少なくないはずです。

頑張る気力がわかない患者さんに対して、頑張ることがあなたの義務だというような言い方をすることは、その患者さんに大きな精神的負担をかけてしまう可能性があります。

極論すると、うつ病の患者さんに「がんばれ」と言ってしまうような、そんな最悪な事態に近くなる可能性もあるわけです。

 

また、上記のように言える客観的な理由もいくつかあります。

まずは、乳がんが発現する理由は運の要素が非常に大きい、ということがあります。

頑張っていないから病気になったり怪我をしたのならば、頑張ってその病気や怪我を克服するべきなのかもしれません。

医学的にも、悪い生活習慣が原因の生活習慣病などは、生活習慣を改善することで克服できるという事実があります。

ですが、乳がんはそういうものではないです。基本的に乳がんになる原因はないです。

いくらルミナール型乳がんの原因が女性ホルモンだからと言って、乳がんになる前から乳がんの予防のために女性ホルモンを抑える人はほぼいません。

遺伝性の乳がんも、そもそもそういった遺伝子を持って生まれてくるか、そうでないかは運です。

自分に非がない病気や怪我を負った人に対して「がんばれ」というのは、少し慎重になるべきです。

別に絶対に悪いことだとは言いませんが、元々頑張っていた人(さぼってはいなかった人)に対して「がんばれ」という言葉をかけることは、失礼に当たってしまう場合もあるからです。

 

次に、乳がんの治療には女性としての気持ちが関係してくることが、「治療を頑張れ」と安易に言わない方がいい理由になると思います。

僕の彼女は、タモキシフェンを使うことへ女性としての精神的な抵抗がありました。これは繊細なプライベートの問題なので、他人がとやかく言うことではないはずです。

ですが、他人から見ると、そういう部分は「治療をさぼっている」という風に、間違った見え方になってしまう可能性があります。

特に男性には分からない可能性が高いですし、そもそも男性には言いたくないことなのかもしれないからです。

 

さらに、これらの他にも、乳がんの患者さんに対して「がんばれ」というとよろしくない理由があります。

残念ながら、乳がんの治療は現在の医療技術では100%の確率で治すことはできません。

手術、放射線治療、ホルモン療法、抗がん剤治療、分子標的治療、免疫療法・・・など多くの治療法がありますが、これらを組み合わせるほど再発率は下がりますが、副作用は強くなります。

そして、多くの治療を組み合わせれば組み合わせるほど、1つの治療あたりの効果は低くなります。

つまり、乳がんの治療は「多くやればやるほど良い」というものではないのです。

バランス良く治療することが重要なのです。これはいわゆる標準治療のガイドラインの元になっていることです。

ですが、医者は基本的に患者の要望は飲む場合が多いので、患者が多く治療を望めばその通りに治療します。場合によっては医者側が大人の事情によって過剰治療を患者に迫ってくる場合もあります。

乳がんの患者さんは「治療をがんばること」=「なるべく多くの治療をすること」という間違った認識をしてしまう可能性があります。

 

話が長くなってしまって申し訳ないです。

要するに、前回のブログで僕は「彼女は僕を含む周りの人のためを思って、もっと自分の健康に気を使うべきだ」ということを書いたのですが、これは乳がんの患者さんには安易に当てはめてはいけない事だったと反省している次第です。

前回のブログの中で、乳がんの手術後の重要な時期に、彼女が突然引っ越しを決めたことを批判的に書きましたが、これも間違いだったかもしれません。

このことと、先日彼女が火傷をしてもまったく冷やさなかったことを同等に考えてしまうべきではなかったです。

記憶をたどってみたところ、彼女が一人で強引に引っ越しを決めたことに対して、僕は乳がんの患者さんの気持ちを色々考えた結果として、渋々彼女の引っ越しを認めて手伝ったのでした。

彼女の引っ越しの理由は、間違いなく「大家と不動産屋がムカつく」だったのですが、それ以外にたとえわずかにでも、飲みたくないタモキシフェンを飲む決心をする時間が必要だった、という理由もあったのかもしれません。

実際に、彼女は引っ越しを終えた後に、タモキシフェンを飲むことを決心しました。

 

僕から見ると、彼女の健康意識は低過ぎます。

これからも彼女があまりに自分の体をいたわらないのならば、僕はその様子を見ていることが我慢ができなくなって、別れることになるかもしれません。

ですが、そういった話の中でも、乳がんについてのことは、それはそれとしてまた別に考える必要があったことでした。

これらのことをふまえて、火傷の件の日から今日まで、彼女と何回か話し合ってはいるのですが・・・

いつもながら、何か話がかみ合っていないような気がします・・・

何というか、僕と彼女とでは「話し合い」の定義が違うような気がします・・・

 

 

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このブログの前半の方を読んで下ったことがある方は、覚えていて下さっていることかもしれませんが、彼女は乳がんの治療を基本的に受けたがりませんでした。

がんの治療を受けようとしない方は、意外と多いかもしれません。

それには色々な理由が考えられると思います。

彼女が乳がんの治療を受けたがらなかった理由も、いくつかの理由の複合のように感じられました。その中の大きな理由の一つは「自分が健康体であることを信じたい」というものでした。

僕には一生かけても絶対に理解できない理由です。

世の中には死を恐れない人間がいるようなのです。

 

この話を聞いた方は、「作り話なんじゃないかな?」と思われるかもしれません。

僕も作り話であって欲しいです。

もしくは、「彼女さんは自暴自棄になって、そういうようなことを言っているのではないかな?」と思われるかもしれません。

そうではないのです。

 

彼女は、乳がんの手術の病理検査の結果が出て、抗がん剤治療やホルモン療法、放射線治療をするかしないかを決めなければいけない時期に、突然「引っ越しをする」と言い出しました。

僕が怒ったり、逆に泣きそうになりながら「お願いだから、乳がんの治療方針をしっかり決めてから引っ越ししよう」と頼んでも、彼女の引っ越しの意思を変えませんでした。

(彼女と僕の乳がんの術後の治療方針の話し合いは一時中断になりました。正確な日数は覚えていないのですが、引っ越し関連の期間により、彼女の乳がんの術後の全身への治療は1ヶ月以上遅れて始まりました。結局、タモキシフェン単独服用に決めました。)

彼女が引っ越ししようと思った理由は、「更新時の大家と不動産屋の態度がムカついたから」です・・・更新で家賃を上げるという、少し異例の要求をされたらしいのです。

その要求がおかしいのは事実ですが、だから「引っ越しをする」というのは、そもそもその対応として理解できません。

家賃を据え置きか、逆に引き下げる要求(交渉)をしてもいいはずです。そういったトラブルはよくあることのはずです。

ただ、彼女は「引っ越す」と決めて、それ以外の選択肢は一切受け入れませんでした。

更新料や値上げ分は僕が負担をすると言っても、聞く耳をもちませんでした。僕が大家や不動産屋と交渉するといっても聞きませんでした。

当時そのことをこのブログで報告して嘆いていたところ、このブログのコメント欄に「彼女さんは引っ越しをして、乳がんになったことなどの気持ちを整理したいのでは?」という意見をいただきました。

普通ならそう思われて当然です。僕もそうあって欲しいです。ですが、違います。彼女は本当に大家と不動産屋にムカついただけなのです・・・

 

なぜ今僕がこれらのことを思いだしたかというと、先日、また彼女が自分の体のことをあり得ないくらいにケアしない出来事が起こったからです。

彼女が自分の部屋で料理をしていて、二つの鍋を同時に使っていたところ、一方の鍋を動かす時に、もう一方の鍋のふちに左手を「ジュ」とやってしまいました。

その時に僕もそこにいました。

普段めったに声を上げない彼女が、その時は「アツっ」と声を上げました。まあ、それでも大きな声ではありません。

(なんか、もうここまで書いたら、落ちが分かりそうではありますが・・)

彼女は火傷の部分を水で冷やそうとはしませんでした。

 

僕は、とにかく早く冷やして、と言いました。「一刻も早く冷やすことが重要だよ」と、彼女に対するものとしては、見当違いのアドバイスをしていました。

彼女は「一刻も早く」どころか、まったく冷やそうとしませんでした。

(僕としては)当然、喧嘩になりました。

まずは、彼女の火傷を冷やすことに関しての知識が間違っているのではないかと、何度も何度も確認しました。

「大火傷はすぐに水で冷やすことによって、中程度の火傷に軽減できる。中程度の火傷なら軽度へ。軽度の火傷なら、水で冷やせば一切火傷にならない可能性もある。」

「どんなに軽い火傷だって、水で冷やす価値がないっていうことはない。もちろん大きな火傷ほど、水で冷やせば冷やす程価値は大きい。」

と繰り返し彼女を説得しました。

ですが、結局彼女はほとんど左腕を水で冷やしませんでした。

 

彼女はおそらくその火傷を軽傷だと自分で思い込もうとしていたのだと思います。

そして、それと同時に料理の最中で一旦離れて腕を冷やすのが面倒くさかったのです。

もちろん、彼女が腕を水で冷やすのならば僕が料理を変わりますし、その他のことだってなんでもします。

僕には、火傷直後に水で冷やすこと以上に優先されるくらい重要な事柄は存在しないです。

 

5分でいいから、頼むから火傷を冷やしてくれと言っても、聞き入れてもらえませんでした。

まあ、途中から彼女のあり得ない言動に対して、僕が怒るような言い方をしたから、彼女が余計に頑なに冷やさないと言ったのかもしれません。

しかし、「頑な」になったからといっても、火傷を冷やさないのは僕には考えられません。

僕と彼女は、あまりにも自分達の体や健康に対する考え方が違います。

もう、彼女とは付き合い続けるのは無理なのかもしれません。

(後日、その火傷は赤黒くというか紫色というか、そういう感じになっていました。3~5センチくらいに、鍋の淵の跡がついている感じです。水ぶくれにはなっていなかった、と彼女が言っていました。ただ、これは火傷の程度の問題ではないと僕は考えています。もし、まったく痕が残っていなかったとしても、僕としては考えも気持ちも変わらないところです。)

 

ここまで彼女のことを批判するように書いてしまったのですが、僕は実は彼女の考えていることも間違っていないことを知っています。

彼女には、現在乳がんの再発の危険性以外にも、差し迫った危険性のある生活習慣病の可能性がいくつもあります。

彼女はそれらに対して、すでに自分で対処できていると考えていることを僕は知っています。

ですが、僕から見て(おそらく誰から見ても)、必要な対処の10%も出来ているかどうかのレベルです。

そして、もし彼女がこのままの生活を続けて、それらの危険な症状が強くなってきてしまっても、彼女は自ら「あの時のもっとしっかりしておけばよかった」と後悔することはないと思います。

なので、彼女自身としては何も間違ったことをしているつもりはないはずです。

 

彼女のお母さんは肝硬変になっています。それでも御年70歳まで健康寿命を更新されていて、定期的な医療や介護を必要とされていません。

お母さんが乳がんの手術を受けた際にも、肝臓やその他の臓器への影響を考えてとても慎重にならざるを得ない手術ではありましたが、基本的には一般的な乳がんの患者さんと同様の手術を受けられました。

彼女のお父さんも、ご高齢になってからの肺がんを手術で根治させています。

彼女自身も30代までは、ほぼ医者にかかるようなことはなく、自分の体のケアを何もしなくても、とても健康に生きてきたらしいのです。

彼女にとって、自分の健康というのは「何とかなる」ものなのです。

客観的には間違ってはいますが、彼女の主観から見れば「何とかなる」ように見えて当然なのです。

そして、両親(特に彼女のお父さん)から受け継いだ、法外と言える胆力を持ってすれば、「何とかなる」と考えて当然です。

何とかならくても、「好きに生きられたのだから問題ない」と後悔しないくらいの胆力を彼女はもっています。

ですが、僕にはその胆力はありません。

 

非常に失礼な言い方になってしまうかもしれませんが、彼女のお母さんは肝硬変になる前に対処できることがあったと思います。

彼女が乳がんの手術後の再発予防の治療は、やらなくても約75%は再発しないのだから大丈夫だろうと言っても、僕には、その確率を約90%に上げることができるタモキシフェンを飲まないという選択肢は考えられません。

自分が体に対して注意し、改善の努力をすれば防げた怪我や病気で命を落としたり障害を負ったりすることになったら、僕は一生後悔し続けると思います。

僕にとっては、結果が重要なのではなく、過程が重要です。ケアしたかしないかが重要で、努力したかしなかったかが重要です。

できる限りのことをして、それでも自分や大切な人の身に起こってしまったことならば、「それが天命だ」と受け入れられる可能性がありますが(それでも絶対に受け入れられるとは言い切れませんが)、最善を尽くさずにある意味当然の結果として自分や家族の身に起こった不幸は、僕には後悔しきれません。

 

彼女はそういった考えとは、むしろ逆と言える感性で生きています。

やはり、彼女とは別れるしかないのかもしれません。

僕は自分や家族の健康以上に大切なものはないと思っていますが、彼女や彼女の家族は(悪い意味ではなく)自分や家族の健康以上に大切なものがあるのです。

後悔するかしないか、何に対して後悔するかが、僕と彼女ではあまりに違います。

 

 

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前回のブログに対してコメントをいただき、自分で本文を読み返してみたところ、何か日本語としておかしくなっているような気がしてきました。

一応日本語としての文法は成立していますし、彼女が乳がんの手術を受けるまでの僕の心情としては、そのままを書き表していることは間違いないです。

どこがおかしいのかをよく考えてみたところ、どうやら「大丈夫」という言葉の使い方が非常に曖昧になっていた、ということに気付きました。

前回のブログでは、「大丈夫」という言葉の意味を、一般的な日本語の意味とは少しズレている、僕の主観的な使い方をしていたように感じます。

そもそも、前回のブログのタイトルが「医師は大丈夫なのかどうか教えてくれなかった」というものなのに、その一番の主題である「大丈夫」という言葉を曖昧に使ってしまったことは、非常にまずかったです。

お詫び申し上げます。

 

僕が前回のブログで言いたかったことは、彼女の乳がんの手術が行われて、病理検査の結果より乳がんの状態が詳細に分かるまでは「不当に不安になっていた」ということです。

そして、今になって後から考えると、主治医や他の医師がもう少し違う情報の与え方をしてくれていたのならば、そういった不当な不安はなかったように感じることです。

彼女は非常に混雑している、がん専門の大病院で手術を受けました。診察では、別に急かされることはありませんでしたが、だからと言ってゆっくりと聞ける限りのことを聞いていい雰囲気でもありませんでした。

彼女と僕は、診察で主治医に質問する機会に、大切なことの要点をしっかりと聞くために、あらかじめ質問する内容を考えていく必要がありました。

 

いろいろと質問しましたが、しかし、不安は解消されませんでした。

その原因は前回のブログでも書きましたが、そもそも、当時の知識では、何を聞いて何と答えてもらえれば、それが大丈夫かどうかの判断材料になるかどうかも分からなかったからです。

ここで「大丈夫」と思うのは僕です。僕が勝手に主観的に「大丈夫」と思うための質問をしようとしているわけです。

彼女が自分自身のことを「大丈夫」と思う基準と違うかもしれません。(というか、結果として確実に違いました。彼女は僕が感じるより遥かに大丈夫だと思っていましたし、治療の選択肢では大丈夫な側の選択をしようとしました。)

ですが、僕としても、ただただ自分の不安を何とかするために、医師に優しい言葉をかけて欲しかったのではありません。

なるべく現状の把握を正確にしたかったのです。僕にとって現状が把握できないことが不安でした。

 

彼女が手術をしてもらったがん専門の大病院に転院してきた時には、すでに針生検によって、ある程度の乳がんの状態が判明していました。

なので、僕はまず「針生検の結果は術後の病理検査の結果によって大きくくつがえるものですか?」と主治医に質問しました。この時点では、彼女の乳がんについて知り得ることのほとんどは、この針生検からのものです。(残りは画像の診断のものです。)

そうしたところ、「大きくくつがえることはほぼない」との回答でした。

この回答をもらったことと、手術前のMRI検査などから、僕は彼女の乳がんを不当に心配する必要はなくなったはずでした。

しかし、やはり不安はぬぐえませんでした。

この時点で知り得ていたいろいろな数値の意味合いを、理解できていなかったことが不安につながったと思います。

 

1%でも転移再発率があるのならば、不安はぬぐえないのでしょうか。

そういう人もいると思いますが、僕は彼女の乳がんではそういう意味合いでの不安はなかったです。

では10%ならば?・・・50%ならば?・・・

キツい言い方をすれば、数値をどう解釈するかは、人それぞれです。1%でも転移再発率があったら不安でどうしようもなくなってしまうのであれば、患者の心の問題として、カウンセリングや、乳がんについて心のケアをしてくれるサービスを受けてみるべきです。

そういう心の問題は、実は数字の大小に関係ないことのはずです。再発率などの数字で、「何%を基準として、ここから下は大丈夫で、ここから上は不安になる」という問題ではないはずです。

 

こういったことを考え合わせると、僕が彼女の乳がんの手術前に心配になっていた原因は、彼女と自分が取った治療の選択肢が合っているのかどうか?についてだったということが分かりました。

それは、もしかすると、僕自身が患者本人ではなかったからなのかもしれません。もしかすると、彼女自身があまり治療に積極的ではなかったからかもしれません。

もしかすると、本当のところは違うのかもしれませんが、しかし、彼女と自分が相談して選んだ治療の結果が間違っていて、そのせいで彼女の乳がんの再発に影響が出てしまうようなことがあると考えると、夜も眠れないほど不安になったことはたしかです。

 

その時点で分かっている乳がんの危険性を正確に把握できない不安、そして、その正確な状態の把握から導かれる治療の最善の選択肢が取れているかどうか分からない不安。

その二つは直結しているはずですし、その二つが相乗効果として僕の不安を大きくしていたような気がします。

 

 

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