サポートされる側の愛について考えてみます。

前回のブログで、親に愛されている子供と、師弟関係の弟子について書きました。

サポートされる状況というのはあらゆる場面があります。その中で、サポートされる側が心から成長を望んで、それに答える形でサポートが行われている状態ならば、サポートする側とされる側の関係性は発展していきます。

そしてその場合は、サポートする側が精神的に成長し、大きなものを得るのです。

子供を心から愛している親は、必ず頑張っています。幸せです。その幸福とやる気を子供にもらっているのです。

熱心な弟子に対して、師匠は誇りに思うはずです。その弟子の成長は自分のことのように嬉しいはずです。弟子が師匠にする最大の恩返しは、自分の成績を世に知らしめることです。

 

物理的、実利的なことのみに注目してしまうと、サポートされる側は、もらっているだけに見えてしまいます。

しかし、現代において、物やお金、それを得るための手間や技術は絶対的に重要な要素ではないと、僕は思います。

サポートする側とサポートされる側は、物やお金や手間をやり取りしていますが、それは大して重要ではない。

そうではなくて、サポートする側とサポートされる側で生まれる関係性と、その関係性から得られる精神的な成長の方が重要なのではないでしょうか。

精神的なことに注目した場合、サポートする側がサポートされる側から受け取ることは多いはずです。サポートされる側がサポートする側に渡すのです。

 

これらのことは理想論で、聞こえはいいが現実的ではないことを言っているように思われるかもしれません。

しかしそれは程度の問題です。そして本質的な問題です。

現実的にできるかできないかは別として、こういった見方で見るならば、サポートはするかされるかの問題ではなく、二人で何を生み出すかの問題に見えるはずです。

 

親子の例や師弟の例は、極端な例です。サポートから生み出される精神的な成長がとても大きい例です。ですが、そこまで極端な例でなくても、日常的にそういうことを感じられる場面はあります。

日常で、誰かに何かをしてあげてたら、してあげたこちらの方の気分が良くなったことはないでしょうか。

そういう風になるべきだとか、そういう人間が良い人間だとか言おうとしている訳ではないです。そうではなくて、そういう場面にこそ、サポートの本質が読み取れると僕は思うのです。

してあげた方が嬉しくなっている場合は、してもらった方も必ず重要な何かを得ています。つまりそれは、二人で協力してお互いの気持ちにとって大切なものを生み出した瞬間なのではないでしょうか。

 

 

ま、まあ結局、僕も彼女をサポートしながら幸せになりたいなあ、と・・・

 

 

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自立した人間でないと、誰かに対して本質的なサポートはできません。

相手に何かをしてあげることによって相手との関係性がどうなるのかを理解していて、その関係性が発展するように考えらえる人でないと、誰かを真にサポートすることは難しいです。

相手のサポートをして、その相手との関係性が継続的に発展していくためには、相手が成長するためのサポートをするしかないです。

すべてが相手の成長のためでなくても、少なくともある部分では相手の成長に関わるサポートをしなければ、原理的にそのサポートを続けることが難しいのです。

逆に言えば、人にとって継続的で真に自分のためになることは、自分自身の成長以外にないということです。それを手伝ってあげることがサポートです。

それは技術的、実利的な成長でなくてもよく、精神的な成長でも成り立ちます。むしろ精神的な成長が一番重要です。

一番重要な精神的な成長をサポートせず、他の物や手間だけを相手に差し出すサポートをしていれば、いずれそのサポートは続かなくなり、終わります。

 

僕は、人を愛するということは、この真のサポートをすることだと思います。

知っている人や周りにいる人の全てに真のサポートをすることはできません。知っている人や周りの人を全て愛せるわけではないということです。

愛していない人をサポートすることもあります。しかしそれは一時的なサポートのはずです。一時的にすら続かなくなって、そのサポートは終わることが多いはずです。

人を愛するということは、その人の性格や能力を深く考えて興味を持ち、その人の人生でその人の一番ためになるその人自身の成長を心から願い、そのためのサポートすることなのではないでしょうか。

愛する人と自分は性格も能力も違うはずです。その性格も能力も違う人の成長をサポートしようとするならば、その人の性格と能力に合わせて、自分を広げる必要があります。

つまり、自分も成長しなければならないのです。

 

このことは、一般的によくあることです。

子供に対して一番良い教育は親がそれに参加することです。一緒に学ぶこと以上に効果的な教育はないと思います。

自分ができることを人に教える場合でも、良い教師ほど生徒と一緒に学んでいるはずです。つまり生徒目線です。

自分が努力していないのに、人に努力しろと言っても、それは意味のない言葉であることは誰でも知っています。

愛がなければ人を成長させることはできませんし、人が成長する時は、必ず誰かの愛を受けていると思います。

そして愛している方も、愛することによって成長しています。

 

子供は何もしなくても、基本的に成長して行きます。だから、子供は存在するだけで、基本的に愛を受けやすい存在なのです。

逆に、子供の成長を願わない親は、その子供を深く愛していないと言い換えられるかもしれません。

子供は多くのことに興味があり、その興味は自分の成長につながっています。たとえそれが大人の望まぬことであっても、子供は少しでも自分自身で何かを成し遂げようとする場合が多い。早く大人の仲間入りをしたく思っているのです。

だから、子供は愛されやすい。

でも愛されやすいだけです。必ず愛されるわけではない。しかし、子供が親に愛されている状態を思い浮かれべば、その子供の成長も同時に思い浮かべられるのではないでしょうか。

 

サポートされる側が、何をサポートされるのか。そのサポートされる内容について、自分ではどう思っているのか。そのサポートを心から望んでいるのか。そしてそのサポートで得られるものが、自分にどう影響を与えるのか。

それがはっきり見えていればいるほど、サポートを強く望んでいるはずで、サポートされることによって得るものが大きくなり、サポートする側とサポートされる側の関係性が良くなる。

そして、サポートするかサポートされるかは問題ではない。する側とされる側は表裏一体です。だから

サポートする側が、何をサポートするのか。そのサポートする内容について相手はどう思っているのか。そのサポートを相手が心から望んでいるのか。そしてそのサポートで得られるものが相手と自分にどう影響を与えるのか。

それがはっきり見えていればいるほど、サポートする側も、サポートすることによって得るものが大きくなる。意味のある関係性が得られる。

 

自分の趣味を本気で学びたくなった時を想像して下さい。その趣味の成長をサポートしてくれる人のことを師匠だと感じるはずです。そこでは、師匠と弟子の特別な関係性が生まれるはずです。

仕事などを事務的に教えてくれることもサポートのはずです。しかしそこでは師匠と弟子の関係性までは生まれないかもしれません。

病院で患者が看護師にサポートされても師弟関係にはなりません。子供が親に衣食住を与えられても師弟関係にはなりません。

これらのことはお金が関わるか関わらないかによりません。お金の問題でも、かかる時間の問題でもありません。

サポートを受ける側の、サポートを受ける内容によって、特別な師弟関係という関係性が生まれているのです。

サポートする側、される側の、そのサポート内容に対する気持ちの大きさの問題です。

場合によっては仕事でも師弟関係が生まれるかもしれません。それは必ず仕事に対して強い気持ちを持っている場合だと思います。

 

サポートする側とされる側の関係性は、そのサポート内容に対する二人の興味によって決まるのです。

 

 

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また、彼女との引っ越しの話し合いがこじれてしまいました。言い合いになりました。

不謹慎なことかもしれませんが、彼女と乳がん以外のことで話がこじれればこじれる程、それが乳がんの治療法の話し合いの時の参考になります。

乳がんの治療法選択についての決断は、彼女と僕の人生の中で最も重要なものの一つになるはずです。なので、お互いに心からの本音を言い合って、後悔のないものにしたいと思います。

深く話し合えるヒントになるかもしれないので、引っ越しの話し合いでの彼女と僕の認識のズレについて考えているところです。

乳がんについての話し合いと引っ越しの話し合いを、まったく同じように考えない方がいいことは承知しています。ですが、まったくヒントにならないということでもないと思います。

 

僕は以前から、人に何かをしてあげることと、人に何かをしてもらうことは、ほぼ同じことだと考えるようにしています。

それはつまり、人に何かをしてあげた結果で相手が得る実利的なものやことの大きさよりも、それをした二人の間に起こった関係性の変化の方が重要だと考えているということです。

何かをしてあげた結果、その相手との関係が悪くなることもありますし、何かをしてもらった結果、その相手との関係が良くなることもあります。

何かをしてあげる側か、してもらう側かは大きな問題ではなく、してあげたり、してもらったりした結果の二人の関係がどうなるかが問題なのです。

 

相手に何かをしてあげた結果については、いろいろ想像がつきます。

相手が本当には欲していない物やことを、押し付けであげたりしてあげたりすれば、二人の関係性が悪くなるでしょう。仮に、その場は上手く収まったとしても、それを繰り返すうちに、してあげる側は「相手は恩知らずだ」となるでしょうし、してもらう側は「めんどうくさい」となるでしょう。

なので、二人の関係性をよくするために相手に何かをしてあげるならば、相手が何を望んでいるかをよく考えなければなりません。

ただ、相手の必需を考えて何かをしてあげると、次の問題が起こってきます。相手はそれをしてもらって非常に嬉しいわけですから、またして欲しいと思うことでしょう。もう一度それをしてあげて喜ばれれば、さらにまたして欲しいと思うかもしれません。

基本的に、無尽蔵に物をあげたり何かをしてあげることはできません。

なので、相手にとって本当に嬉しいことをしてあげる場合は、それをしてあげる基準を作らなければならないことになります。

そして、その基準を作る時も、やはり相手との関係性の変化を基準にすべきです。その基準は相手との関係性をよくする基準でなければなりません。

これはお金を貸すことを想像すれば分かりやすいです。借金をしたり、お金を貸したがゆえに、仲が良かった友人との関係性が悪くなることは多いです。

お金は誰にとっても有り難いもののはずで、その絶対に喜ばれるものを用意してあげて、それなのに関係性が悪くなるのです。

なぜ、お金の貸し借りで二人の関係性が悪くなるかは、多くの人は経験的に分かっていると思います。自分で働いてお金を得るよりも、人からお金を借りた方が簡単だと錯覚してしまうからです。

 

お金を例にすると考えやすいのですが、これは相手に対する「サポート」全般にも実は当てはまることです。

誰に何らかのサポートする場合、相手の欲している物やことにフィットすればフィットするほど、お金と同じような錯覚に陥る可能性が高くなります。サポートしたがゆえに関係性が悪くなるという事態もあり得ます。

 

では、関係性を考えた上で、どういったサポートを相手にすべきなのか。

相手をサポートすることによって、相手の成長をうながし、お互いの自立を目指すべきです。

サポートする相手が、サポートによって一切成長できないならば、下手をするとサポートしたがゆえに相手の長期的な利益を損なってしまいます。サポートなしでは困ってしまうことになるのです。

どんなことでもいいから、相手が成長できるようなサポートをすべきです。

相手が自分のサポートに甘えるか、自分のサポートによって成長するかが、相手との関係性を良くするか悪くするかに繋がります。

ここで、慎重に聞いて欲しいです。

僕は相手に何をどれだけしてあげるかの実利的な問題ではないと主張しています。そして、してあげるか、してもらうかも問題ではないと言いました。

相手と自分の関係性がマイナスにならなければ、相手にいくら献身的につくしてもいいのです。逆にどれだけ実利的に人に頼ったとしても、二人の関係性がマイナスにならなけばいい。

僕が言う「相手をサポートすることによる、相手の成長とお互いの自立」は精神的なものです。つまり二人の関係性です。

 

ごちゃごちゃ書いてしまいましたが、要するに、サポートをしたりされたりする時にはお互いの精神的な自立が必要だ、ということです。

自立とは成長を目指すことです。サポートは精神的な成長がなければ成り立たない。

そして、逆に、精神的に自立のできていない二人がサポートをしたりされたりするならば、精神的な自立を必ず目指さなければならない、ということでもあります。

精神的に自立のできていない人間が他人をサポートしても長続きはしませんし、精神的に自立のできていない人間が誰かにサポートされても問題が起きてやなり長続きしないでしょう。

僕に言わせれば、逆に、自立するということはお互いの関係性を損なわずに助け合える存在になる、ということです。

 

 

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